Cracks of Foam

泡沫のヒビ

幻とのつきあい方

4人掛けの椅子が好きだ。隣に座る人と戯れたり、奥にいる人と覗き込むようにして前のめりで話したり、同じ景色を見たり、誰にでもなく言葉を投げかけたり、静かな時間を過ごしたり。そんなありふれた時間が、同じ椅子を共有することで特別な経験にしてくれるような気がしている。

 

とても仲の良い4人グループがあった。私たちは毎日理由もなく通話をし、会社のことや笑い話、辛いことや楽しいことを共有し合った。

3年間ずっと一緒であった。この時間がずっと続くと信じて疑わなかった。

 

昨年の7月、鬱で休職した友人の訃報を聞く。

自殺であった。

 

調子が悪いのは分かっていた。辛いと嘆く彼に休職を勧めたのは他ならぬ私である。

自殺で2人も3人も友人を失いたくない、頼むから生きて欲しいと涙ながらに伝えた。

この一言が知らずに彼を椅子の端に追いやってしまったのかもしれないと時折考える。

他人の心は分からない。

 

友人としてとても尊敬していた。好きだとか、大切だとか、愛しているとか、冗談っぽくも嘘偽りなく真っ直ぐ伝えていたつもりである。

伝える術は最早ない。

 

ふとした時に思い出す。景色の中に彼がいる。少し見上げるぐらいの背丈を覚えている。抑揚の少ない話し方を覚えている。気弱だが強い眼差しを覚えている。目の前の景色が滲む。

 

人を亡くすと心に穴が空く。その人が占める箇所、将来占めたであろう箇所までも、大きな穴となって虚をつくる。それはどんなに楽しい出来事や新しい人との出会いでも決して埋まらない穴である。

 

心を大きく、広くするしかないと思っている。穴が遠く、小さく感じるまで。

その人の存在を大きなまま、忘れない為に。

 

4人掛けの椅子が好きだった。隣に感じていた温もりが消え、探すように奥を覗き込む。景色はいたずらに胸を締め付け、言葉は虚しく響き、身を切るような静寂が永遠に続く。

 

言葉の魔法を信じていた。

誠心誠意心を込めて伝えた言葉は、どういう形であれ相手の心に響くものだと思っていた。

現実はファンタジーではない。

 

今尚彼の幻を見る。

ファンタジーなどありはしないのに。

広い心はまだ持てそうもない。

近況

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「損をしてでも正しく生きていたいか。」

大事な局面においていつもその質問が投げかけられる。それはよく研がれた刃先のように鋭く、正確に喉元を捉えている。首を縦に振れば致命傷、横に振れば軽傷。どちらを選んでも無傷では済まないが、どちらを選ぶのが幸せなのだろうか。

私はその鋒が向かぬよう冗談を吐き、煙に巻いて生きている。変わった人だとか、思っていたイメージと違うとか、本心が見えない、などと言われる所以はそこにある。仕方のないことである。

しかし、そんな生き方の私をよしとしてくれる酔狂な人達がいて、彼等は何ものにも代え難く、愛おしいものだと感じている。

 

会社の友人が鬱で退職し、連絡が取れずもう3ヶ月が経つ。彼とは書き尽くせないほどの思い出があり、社会人になってできたほんの一握りしかいない大切な友人の一人である。

何かができた筈だとか、どうするべきだったのかとか、否が応でも考えてしまう。エゴなのも分かっている。驕りだとも思っている。私はまた友人を救えなかったのかと、自分を責めることがある。本人の問題だからと目を背けてしまいそうにもなる。

こうして文字に起こすことは、平穏を望むであろう彼に対する裏切りのような気がしている。

しかし、何かをしないとどうしようもない気持ちに心が潰れてしまう。不安で吐きそうになる時がある。

 

「損をしてでも正しく生きていたいか。」

似たようなことを尋ねた時、彼は首を縦に振った。真っ直ぐな人間である。とても優しい人間である。そんな純朴な人間を誰がないがしろにできようか。

言葉が宙に浮いている。

そんな近況。

アルバム『Burning tree』について

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3年ぶりに関西人にコンバージョンしたが、古巣と呼ぶには少しばかり遠い所に居を構えている。

道路脇の水路では鯉が不自由そうに泳ぎ、駅前の寂れた喫煙所では町の人が祈るように煙草に火をつける。街灯の少ない土地ではあるが、照らし出される空気は紛れもなく関西のそれである。

思えばキャノンボールよろしく関東へ射出され、偉いさんから是非にと頭を下げられての帰還である為、凱旋もいいところであろう。

しかし、3年も経てば浦島太郎状態である。変わったところは多くあれど、足繁く通っていた文具屋が今では殆どシャッターを締め切りだと聞いた時、酒と云う名の玉手箱を堪らず開けてしまった。二日酔い。様々な後悔はまるで煙のようにまとわりつき、現在の自分はまるで真綿で縊られているかのようである。

 

少し思い出話。

GRAPEVINEに初めて触れたのは中学の時であっただろうか。発売されたての『ジュブナイル』のPVをCSの音楽チャンネルで目にしたのが一番古い記憶である。

時を経て約10年後、「焦れた日々に僕らは離ればなれ」という『ジュブナイル』の歌詞にまんまとやられてしまった訳である。

思い返せばGRAPEVINEから離れていた時期こそあれど音楽プレイヤーの中には常にその名前はあったし、バンドをやっている友人と関連の話で盛り上がったこともある。

私が勝手に身近に感じているバンドはGRAPEVINE だけなのだろう。

 

『Burning tree』はGRAPEVINE13枚目のアルバム。発売は2015年、私は就活やらなんやらに追われていた頃である。しっかりこのアルバムを聴いたのは2年程前であるからタイムラグがおそろしい。

そんな私のアルバムについての感想である。大したことなんて言えやしないし、何を話せばいいかもわからない。それに何を言っても所詮は愚かなものの語ること。鵜呑みにしないでいただけると幸いである。

ウォータードラムの音が瑞々しいM1や、『wants』を意識したM4、先行シングルのM5が前半ではとりわけお気に入り。

後半に関しては、流れで聴いても単品で聴いてもどれも素晴らしいが、特筆点はM6の『MAWATA』であろう。新しさ、色気、捻くれた歌詞、これでもかというぐらいにバンドの魅力が詰まっている。一時期はこれしか聴いてなかったほどにハマった。まさにインサニティ。

あと別枠で気になるのはM10。要所要所の歌詞に沢田研二の『サムライ』を感じるのは私だけであろうか。

アルバムとしての聞き応えやバランスの良さは近年のアルバムの中でも随一であると考えている為、周囲に勧める1枚として個人的には推している。欲を言えば先行シングルのカップリング曲『吹曝しのシェヴィ』を入れてほしかった。

 

あとがき。

この記事を書いたその日、私はツアーファイナルに足を運ぶ。

GRAPEVINEを拝むにあたり、”私とGRAPEVINE”という箸にも棒にもかからない感想文を期日ギリギリに仕上げた訳である。

本来ツアーの感動等を伝えるべきであろうが、多分生きて帰れない為、感想文兼遺書である。

ぼろぼろに泣く自信はあるが、肝心のハンカチを忘れてしまった。これもまた小さな後悔である。

映画『シベールの日曜日』について

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「これだけあれば十分やろ。」

社会人になり住み慣れた家を出て行く際、そう言って父親は財布から7万円を取り出し、投げるように私に寄越した。新大阪から名古屋へと向かう夜の新幹線で、あまりの惨めさに私は1人唇を噛み、涙を流した。

「あんたが居なければ私はもっと早く離婚できて別の人生があった。」

大学4回生の時、毎日母親からこの言葉を浴びせられた。日を追うごとに心が死んでいくのを感じた。

親を大事にしろと年長者は言う。こんな親でも大事にしなければならないのであろうか。この世が芥川龍之介の『河童』の世界であるならば、胎児の段階で産まれてくることを拒めたのになと落胆することも屡々である。

 

シベールの日曜日』は1962年のフランス映画である。その年のアカデミー外国語映画賞を獲った映画であり、ヴェネツィア国際映画祭でも特別表彰されているが、やや入手困難な映画である。同じ年の映画であれば『水の中のナイフ』もお気に入りであるが、それはまた別の機会にしようと思う。二十歳の頃、誕生日プレゼントとして当時の彼女にせがんで買ってもらった、というのは心底どうでもいい情報であるが一応記しておこうと思う。

私の知りえる映画の中でも指折りの美しい映画である。大人になることを強いられた子どもと、大人に戻ることを強いられた子ども。純粋というものはいつだって大人に取り上げられ、踏みにじられる。無自覚にそれを行うのだから大人もまたある種純粋なのであろうか。白黒の映像の研ぎ澄まされた絵や、控えめな音響が、物語の悲惨さを浮き彫りにしている。私は決して饒舌ではない為詳細な内容やレビューは他の方々に委ねるが、一人でも多くの人がこの映画を知り、興味を持ち、触れてもらえる機会が増えるよう切に願う。とても美しい映画なのだから。

父親によって孤児院に預けられた少女が映画の中で「パパは死んだの。」と嬉しそうに笑う。どうせ捨てられたようなものであれば、私も明るく笑い飛ばすしかないなと、少し考えさせられる春先であった。

ほぼ日手帳専用カバーについて

f:id:INDIANCAT:20190117014827j:image何かを買ったと言うと、いの一番に金額を知りたがる人がいる。下賤な輩である。モノの価値は人それぞれであるため金額など二の次でよいではないか。むしろそれがどういったモノで何が気に入ったのかを私は知りたいと思う。会話とはそうあるべきだ、というのは私個人の理想である。

上記の通り私は会話に求める理想が高いので、満足に会話をできたという実感が最近は殆どない。とてもとても面倒な男なのである。圧倒的な知識量に打ち負かされたい。私の知らない世界を凄まじい熱量で語ってほしい。会話とはそういうものではなかろうか。

本題に移る。

この手帳カバーは二年ほど前にひょんなことから知り合ったIさんという人に作っていただいたモノである。Iさんは趣味で革製品を製作している方である。職種も近く話しやすい人柄であり、革に対する情熱が素晴らしい。製品に対する愛を目一杯私に語ってくれる。妥協はなく誠実で、その心意気が製品の全てに詰まっている。この人が私の父親であればと何度考えたであろうか。私情はとりあえず置いておこう。

エキゾチックレザーという言い方はあまり好きではないが、私はその手の革がとても好きである。特にリザードには目がない。そんな私のIさんに対するリクエストは、ブルーのリザードで手帳以外入らないシンプルな作り、素材で勝負できる美しい革が入荷するまで製作はストップ、作業工程や内容も受け取りまでできるだけ知らせないで欲しい、であった。普通なら嫌がるであろう酷い依頼であるが、Iさんは快く引き受けてくださった。本当にありがたい話である。

製作から完成までに約一年。その間Iさんからの連絡は革の入荷連絡と、完成連絡の二回だけであった。若造の無茶振りにもしっかり応えていただけた事に言葉では言い尽くせない感謝の念を覚えた。そうして実物を手にした時の感動は昨日のことのように思い出せる。傷一つない美しい革を前に誇張ではなく言葉を失った。鱗の細かさから若い個体であることが伺える。深い紺色は光の加減でオニキスのような煌めきを放っていた。バックカットのブルーリザード。腹にあたる部分の中心と手帳の背が寸分の狂いなく配置されており、手帳を開くと左右対称の様式となる。手触りで一級品と分かる床面が均一に手縫いされており、これら一通りの作業時間を考えると気の遠くなる思いであった。細部にまで拘らなければ僕が楽しくないからねと嬉しそうに語るIさんの笑顔が忘れられない。

以来二年間肌身離さず持ち歩いているが、角が少々潰れたぐらいで、あとはいたって丈夫である。作りの良さなのだろう。モノの価値は分かる人だけ分かれば良い。私もIさんも同じ考えであるからこそ、多くを語らずとも期待以上のモノが仕上がるのではないかと考える。

何かを製作して完成した時、その製品と向かい合って酒を飲むのが一番贅沢な時間なのだとIさんは言う。私もそんなIさんに倣って、この手帳を目の前に置き、偶に酒を飲んだりする。まるでIさんと会話をしているかのような、そんな気持ちになるのは何故だろうか。

PARKER VACUMATICについて

f:id:INDIANCAT:20181216011336j:image私が初任給で得たものはVivienne Westwoodのネクタイと親友である。

接客業である以上、なんら特徴のない私は外装から人様の関心を引かねばならないと思い立ち、梅雨も明けきらぬ6月の終わり、初任給を握りしめて名古屋高島屋でネクタイを買ったのであった。ああでもない、こうでもないと1時間以上かけてネクタイを選んだのは後にも先にもこの一回だけであるが、本筋とはあまり関係のない話である。

なんとかネクタイを買った私は昼食もろくに取らずその足でPEN-LAND CAFEへと向かった。学生時代二束三文で買った吸入不良のVACUMATICを修理してもらう為である。

散々道に迷って大汗をかきながら店内に入ると、店のカウンターで店員さんと背の高い男が涼しい顔で談笑していた。場違い感に身を刺されながらもペンを取り出し修理可能か訊ねると、店長判断になるから30分待ってほしいと言われた。一先ずコーヒーを頼み、自前の万年筆を広げて日記を付けていると、先程の男がニコニコしながら近付いて来た。彼は夏だというのにジャケットを羽織り、ハットを被っていた。推定28歳、知性を感じる面立ちである。「色々お待ちのようですが、どういうものをお使いですか?」と聞かれたので「大したものはないですが。」とペンを差し出した。彼はひとしきりペンを触った後「どれもよいものですが面白みには欠けますね。」と言った。今でこそ彼特有の皮肉であり小憎たらしいとも思うが、当時の自分としては雷に撃たれたような衝撃であった。自分とそう変わらないであろう年齢の人が「面白い書き味」というものを理解しているのだと。そこから一気に興味を抱き、話すうちに同じ年齢であることが判明し意気投合、交流が長く続く大切な友人となるわけである。

そんな親友との出会いも表題の万年筆が手元に無ければ得られなかった訳であり、吸入不良だったからこそ得られたものであるから世の中不思議である。

私の所有するこのVACUMATICはいかにもPARKERらしい硬い書き味で、力加減も分かりやすい為これからヴィンテージに手を出そうと考える人にはそれなりにおススメできる一本であると思う。しかし吸入の性質上インク洗浄に時間がかかる点、軸がセルロイドで耐久面が心配である点、キャップリングとクリップが錆びやすい点などは気をつけてやらねばならない。

私はといえば、ヤマハのシルバークロスでリングとクリップを磨く度に親友との出会いを思い出せるので、このVACUMATICとは上手に付き合えているのであろう。

アルバム『時の少女』について

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ものごとの例えが上手い人というのは話し上手な人である。人々の関心を大いに集めつつも思慮深く、鋭い切れ味を持って会話を愉しんでいるように思う。

私個人としては脳みそを33回転以上させないことを信条に生きているのだが、その人は会話を競技か何かだと思っているらしく、こちらの回転数を上げようと躍起になっていた。同じ回転数なら手首捻って錬金術でもした方がまだ幾分かマシである。博打は好まないが。

一方、月並みな表現になるが人生とは博打である。身も、心も、金も、未来も、すべて擲って現在という微かな点に全額Betしているのである。早々に擦ってドロップアウトした者をみると、なにやら羨ましい気にもなる。そぞろ。そぞろ神はいる。多分。

『時の少女』は谷山浩子の7枚目のアルバムである。今でこそ再発されて手頃な値段になったが、知った当初の8年前は倍以上の価格であったと記憶している。

時の少女、という響きに明るいイメージを抱く人は多いと思うが、内容は全体的に暗い。特にM1のタイトル曲は非常に重い。M1、M4、M6と、M8のシングルが人気なイメージである。流れで聴いているといつもM7で救われたような気持ちになる。良盤である。

4年前と現在、会えなくなった人がいる。彼らも時の少女に連れられて、黄金の舟で川を下っているのだろうか。かつてダイヤであった石を、私は心の中でそっと握りしめた。